本日の大阪は最低気温-2℃。体に堪えます…。さて前号(マイナス3号)にてC.I.Yな人の特徴として、「自分の複雑化した仕事を社会に上手く発信するために、何かしらの媒体を拵えていること」と記した。2/26-27の「C.I.Y」で紹介する方はまさしくそういう方々だ。なんらかの分野(建築だったり広告だったり)に軸足を置きながら、その専門性を起点に360°回転してみる。それは必ずしも同心円上ではなく、様々な回転軌道、回転速度を伴う。そこに彼ら彼女たち独自の、世界との実践的な関わり方が存在する。ではその世界観に他人がアクセスできるのであれば、それはどういった媒体によってか?ある人は書籍、ある人はウェブサイト、またある人はリアルなスペースを作るといったように。
重要なのは、その媒体の種類がなんであれ、そこには異なる背景をもつコミュニティ同士を積極的に接続する機能が備わっていること。そして仕事とプライベートといった枠組みを取っ払い、日常に散らばっているあらゆる出来事にアクセスできる感覚を植え付ける機能も併せ持っていること。
この2つの機能のことをこうやって言語化すると、書いているペン先(実際にはキーボードなんだけど)から「胡散臭さ」が漂って来て、なんだか気後れしてくるのだが、個人的な感覚からすると、この機能がないと自分自身はもはやポジティブに生きていけない身体になってしまった。
あっ、急にしごく個人的なことを書きたい気分になってきたので、ここからは文体もよりラフに崩しがちに書かせていただきまっす。(でも中之島4117が発行しているペーパーなので程々なノリにしておきます)最近「コミュニティ難民」(「難民コミュニティ」ではないですよ…)って言葉を勝手に意識してまして。wikipediaっぽく勝手ながら定義すると…。
(後藤さん>ここはちょっと強調的にデザインしてもらえますか?)
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「コミュニティ難民」
(英: community refugee ← (文法的にあってんのか?))
コミュニティ難民とは、個人の生産活動において、ある特定の分野における共同体(community)に重点的に属していない、もしくは複数の共同体に分散的に属している状態が長引くことにより、自分の生産活動の分野を特定することが困難となり、どのコミュニティに居てもそれなりの親密感を感じながらも同時に疎外感も拭いきれず、そのことにより活動初期はアイデンティティの揺らぎを元にした多少の精神疾患を伴うこともあるが、徐々にその独特な浮遊感の心地よさに気づいてしまうことで逆に開き直り、積極的に活動分野を拡散させていくことで新たな社会との実践的な関わりを生み出すことへと意識的に向っていく人々を指す。
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ああ…、とんでもなく長い一文を書いてしまって、wikipediaというよりは川上未映子のような文体になってしまいそうな勢いでしたが、なんとなくこういうことでしょうか?別に今回の「C.I.Y」のゲストの方々がこれにあてはまると言っているわけではなく、この「終わっている」とか「無縁社会」とか言われている現在の日本で、こういう存在が暗躍する機会が結構増えてくるのではないかと思っているのですが、読者の皆さんいかがでしょうか?
うわ…、これ3号分の日記で収まらんなぁ。って確か後藤さんも前号で言ってましたね…。
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